真夏の関西旅行記 (その9)[平城宮跡編の弐]のつづきです。
平城宮跡散策の最後は、昨年末に「空振り」して以来のリターンマッチ、平城宮跡資料館です。
今回はめでたく(?)開館しておりました。
が、期待が高すぎたのか、常設展示はイマイチ、インパクトに欠けていたように感じました。
官衙の調度品の再現ジオラマは見応えがあるのですが、机なんかは、遺構展示室隣の復原・宮内省の建物の中で見たばかりでしたし、
実物大に復原された朱雀門やら遣唐使船やら第一次大極殿を観たあとでは、インパクトに欠けるのもいたしかたのないことだったかもしれません。
しかも、説明板にスペルミスを見つけてしまいましたし…
それでも、平城宮跡資料館に行ってよかったぁ~とつくづく思ったのは、ちょうど開催されていた企画展「平城宮跡 今いま・昔むかし -岡田庄三写真展-」を観られたからでした。
この展覧会は、地元在住のカメラマン・岡田庄三さんが、1950年代後半から撮り続けてきた平城宮跡周辺や奈良市界隈の写真約50点を展示したもの。
右の画像は展覧会のフライヤーで、使われている写真は第一次大極殿跡から南南東方向を撮したもので、下が1958年、上が昨年の写真だそうな。
平城宮跡一帯が、ほんの50年ほど前は一面の田んぼだったという事実はホントに驚きでした。
さすがに、長岡京に都が移って(784年)以降、平城宮跡一帯がずっと空き地だったことは考えられませんけれど、それでも、1922年には大極殿朝堂院跡が国の史跡に指定されているわけで(今となっては無粋きわまりない近鉄奈良線の開通は1914年)、まさか50年前には遺跡の上で米作が行われているとは思いもよりませんでした。
約1200年もの間、平城宮跡に大きな建物が建てられることもなく、のどかな田園地帯でありつづけたことは、偶然もあるでしょうけれど、地元の人々にとって特別の場所という認識が代々受け継がれたことも大きかったのではないかと思いました。
そんなことを考えながら、かなりの満足感を胸に、私は平城宮跡を後にして、大和西大寺駅(改札内にコインロッカーがありますよ)に向かったのでありました。
この記事を書くにあたり、ネットで資料を探していたところ、奈良新聞のサイトでこんな記事を見つけました
一部を抜粋しましょう。
かつて「大黒の芝」と呼ばれていた平城宮跡(奈良市佐紀町など)の大極殿跡が江戸時代末から明治時代初めに、周辺住民の共有地になっていたことを記す古文書が、柳沢文庫(大和郡山市城内町)の調査で見つかった、宮跡保存は明治30年、県古社寺修理技師の関野貞による大極殿跡の土壇発見が始まりとされてきた。それ以前に住民が遺構保存を意識していたことを示す史料で、宮跡保存の歴史に一石を投じそうだ。
<中略>
大極殿跡周辺の芝地は江戸時代の名所記や名所絵図にも「今も田を作らず」と記され、平安遷都後も残存していたと推定。周辺住民は古来から残された遺構を個人所有に似つかわしくないと考えていたらしい。
<中略>
柳沢文庫の藤本仁文学芸員は「周辺住民が平城宮跡を認識し、保存していたことが関野の発見のベースになったのかもしれない」としている。
やはり、平城宮跡が破壊を免れた背景には地元の人たちの功績が大きかったようですねぇ。
また、現在、平城宮跡の土地の所有関係がどのようになっているのかを調べてみたところ、これまたおあつらえ向きの資料を見つけました。
国営飛鳥歴史公園(国交省系デス)のサイトに、「国営飛鳥・平城宮跡歴史公園 平城宮跡区域(仮称) 基本計画(案)に対する意見募集」のページがあって、その参考資料(全文はこちら。約39Mもある巨大なPDFです)のうち、「参考資料/1.平城宮跡の概況(PDF:約2.4MB)」に、知りたい情報がドッポリと含まれていました。
この資料の「表2 特別史跡平城宮跡・史跡平城京朱雀大路跡の保全等にかかる年表」からマイルストーンとなったと思われるできごとを抜き出してみますと、
1906年 奈良公園の植木職人 棚田嘉十郎が溝辺文四郎らとともに「平城宮址保存会」を組織し、買上げのための寄附を募る。
1913年 棚田らにより、徳川頼倫公爵を会長とする「奈良大極殿址保存会」が結成される。
1922年 史蹟指定(現在の第2次大極殿等)がなされるとともに、奈良県が管理団体に指定される。
1923年 保存会の事業は終了し、土地は内務省に寄付される(保存会は解散)。
1952年 特別史跡として指定される。奈良文化財研究所が設立される。
1953年 国による発掘調査が開始される。
1961年 宮跡内(当時は特別史跡指定外であった)での近鉄検車区の建設計画が明らかになったことを機に、保存運動が活発となった。→反対運動により中止
1962年 奈良県知事が、国会((衆)文教委員会)において、①発掘調査の早期完了、②国費による土地の買収、③県が買い上げる場合は高率補助金で、④買収後は史跡公園化、⑤地元に犠牲なきよう、の5点を訴える。
1963年 池田総理が平城宮跡国有化の方針を表明し、政府予算に、国による民有地買い上げ4.26 億円が確保された。また、国による公有化にあたり、奈良県教育委員会事務局内に平城宮跡整備事務所が発足(第二次内裏、朝堂院の整備などを実施)される。以降、国予算、公有化の実務は県の役割分担により、公有化が進められた。
1966年 奈良県が国に対し、平城史跡公園化を要望する。
1979年 史跡区域が131ha に拡大指定される。
1984年 平城京朱雀大路跡が史跡に指定される。(以降、奈良市において、国庫補助事業により史跡区域の公有化が進められた)
1998年 特別史跡平城宮跡が、東大寺等とともに「古都奈良の文化財」としてユネスコの世界遺産に登録される。
といったところでしょうか。
そして、現在では下図のとおり、特別史跡内の80%程度が国有地となっているそうな。
ちなみに、カメラマン・岡田庄三さんの祖父は、上記の年表に登場する棚田嘉十郎さんや溝辺文四郎さんと共に平城宮跡の保存に尽力した地元の有志、岡田庄松さんだそうです。
やはり地元の人々に受け継がれてきたものって、実に大きいです
「平城宮跡編」はこれにておしまい
次からは「奈良編」が始まります。
つづき:2010/08/18 真夏の関西旅行記 (その11)[奈良編の1]


