つれづれなるまゝに 日くらしPCにむかひて 心に移りゆくよしなし事を
そこはかとなく紫煙に託せば あやしうこそものぐるほしけれ

10年半ぶりの高松遠征記 #3-2

「10年半ぶりの高松遠征記 #3-1」のつづきです。

高松城の本丸に架かる鞘橋から天守を見ると、天守は残っていないものの、なかなかの偉容です。

高松城天守台の石垣は「野面積み」とよばれる積み方です。

一見、雑な仕事っぽいのですが、「よじ登りやすい」という欠点を持ちつつも、耐震性や排水性などの点で優れているのだとか。

江戸城平川門で見られるような隙間に紙をも通さないような「切込み接ぎ」だと、排水路・排水口を作る必要があります。
また、耐震性でも「野面積み」に劣ると聞いたことがあります。

私の個人的な好みでいえば、「切り込み接ぎ」「すげぇ~」とは思いますが、「野面積み」の方が好きです

「一見、雑な仕事っぽい」のは石垣だけでなく、天守につづく石段もそうでした。

この写真では判りづらいので、アップを載せます。

石段の段差バラバラです。

躓かないよう注意を促す看板があったように、こりゃ上りづらい

でも、これは築城する上での策略ではなかろうか

事情を知らない攻め手が、天守に駆け上がろうとすると、絶対にコケる

そもそも天守の役割は、戦時物見作戦本部ですが、平時威厳を示すことだけと言っても良いでしょうから、高松藩の人天守に急いで上ることはほとんどないでしょうし、もしそんな必要が生じたとしても、そもそも勝手知ったる人なら、リズムを乱しながらも石段を駆け上がることができる、っつうことではないかと思った次第です。
あくまでも私見ですのであしからず

天守台から大好物艮(=北東)方向を眺めたあと、本丸から二の丸に戻りました。

   

高松城内堀の水は海水で、なんかも泳いでいます。
江戸時代同様に今も瀬戸内海とつながっているわけで、地面の下に水路があります。

水路を覗いてみると、この時間は潮が満ちてきているようで、瀬戸内海から内堀へと海水が流れ込んでいました。

なお、時間は前後しますが、この水路は、玉藻公園の外水城通りの地下を貫いていて、それも見ることができました。

   

玉藻公園内の話に戻りまして、かつては瀬戸内海に面していた水手御門を内側から眺め、

月見櫓を見上げました。

玉藻公園リーフレットから「月見櫓」の項目を転記しますと、

月見櫓北の丸の隅櫓として延宝4年(1676年)頃に完成したといわれ、出入りする船を監視する役割を持つとともに、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので [着見櫓] ともいわれています。
総塗籠造りの三重三階・入母屋造・本瓦葺で、初重は千鳥破風。二重は唐破風と屋根を対象させています。
月見櫓に連なる薬医門様式の水手御門は、いわば海の大手門です。

「海の大手門」、なかなか良い表現だと思います

この御門から出入りする藩主は、沖に泊めた御座船高松城との間を、小舟に乗り替えて行き来していたと、ブラタモリ「高松」でも説明していましたっけ…

ここで踵を返した私は、披雲閣庭園を通って披雲閣方面へと向かいました。

ここで「#2-5」に載せた園内マップを再掲します。

三の丸の中央部に位置する広大なお屋敷披雲閣です。

説明板によると、披雲閣(旧松平家高松別邸)重要文化財に指定されているそうで、

松平家第12代当主貴族院議長も務められた松平賴壽氏により、3年の歳月と当時のお金で15万円の巨費を投じて現在の披雲閣が大正6年(1917年)に完成しました。この豪壮な和風建物には142畳敷の大書院をはじめ、槙の間・蘇鉄の間などの雅趣を生かした各部屋があり、波の間には昭和天皇、皇后両陛下がご宿泊になられたこともあります。
昭和29年(1954年)城趾とともに高松市に譲渡されて、現在は会議・茶会・生花展などの会場として利用され、広く市民に親しまれています。

だとか。

披雲閣の玄関に至る途中、広ぉ~い広間を外から覗き見ることができたのですが、これが「142畳敷の大書院」だったのででしょうか?

窓ガラスウルウルで、年代物だと感じさせていただきました

というところで、「#3-3」につづきます。

つづき:2025/05/12 10年半ぶりの高松遠征記 #3-3