「半年前の信州旅行記(その16)善光寺編⑧」のつづきでは、善光寺本堂の裏手に回ってみましょう。
「その16」でトピックスにした御開帳のシンボル「回向柱」、その用材は毎回「松代町」から寄進されているのだとか。
そして、江戸時代は、その「松代」に本拠を置く松代藩が善光寺を含む現在の長野市一帯を管轄していたらしい。
私、「松代」と聞くと、太平洋戦争末期に国の中枢の疎開先として建設された「松代大本営」が頭に浮かぶのですが、その「松代」がどこにあるのか知りませんでした。っつうか、気にもしていませんでした。
そこで、この機会に調べると、旧「松代町」は、1966年に長野市と合併しておりまして、現在は「長野市松代町」になっておりました。
そして、江戸時代に領主だったのが、松代藩の真田家。
その真田家の供養塔がありました。
江戸時代に善光寺の外護職を務めた松代藩の藩主、真田家の供養塔です。松代藩は善光寺を保護すると共に篤く信仰していました。境内東部には重臣らの供養塔も現存しています。
ということで、こちらがその供養塔。
説明板に、「善光寺の外護職を務めた」という表記がでてきますが、「外護職」って何?
語感からして、何らかの役職っぽいのですが、私には初耳です。
そこで「外護職」でググってみたところ、ヒットしたのは、この善光寺の供養塔絡みのものがほとんど
せいぜい、「十市遠忠」なるこれまた初耳の人物に関するWikipediaの記述で、
1538年(天文7年)2月29日、大和国興福寺供目代御房へ大仏供上庄外護職を請けて忠勤を約束する。
というものくらいです。
う~む、、、、判らない・・・
判らないので先に進みます
世の中にはいろいろな供養塔があるもので(とりわけ上野の不忍池・弁天堂界隈は供養塔銀座とも呼ぶべきスポット)、善光寺にも妙な(失礼)供養塔がありました。
「迷子郵便供養塔」とあります。
「縁起」として、
わが国における郵便物の数は年間110億通を越え米国英国についで世界第3位である
このなかに受取人に配達することも差出人に返送することもできない郵便が180万余通もある
これら郵便として使命を果たすことのできない迷子郵便を供養するため郵便創業百年にあたり前島密先生出身の地に近いここ善光寺に全国有志諸君とともにこの塔を建てる
昭和46年4月20日
郵政大臣 井出一太郎
と書かれていました。
でも、「郵便制度の父」とされる前島密の生誕地は新潟県上越市だし、当時の郵政大臣・井出一太郎さん(ひやぁ~、ご親族との私的な思い出が蘇るぅ~)は長野県でも群馬に近い佐久だし、どうして善光寺に「迷子郵便供養塔」があるのでしょうか?
これまた判らないので先に進みます
次は、「花霊」と彫られた供養塔。
説明板によれば、
生け花に用いられた花を供養するため、善光寺近郷の華道関係者によって昭和12年(1937年)に建立された慰霊塔です。題字は当時の善光寺大勧進管主、水尾寂暁師の御揮毫です。
とな。
生き物の供養塔はもちろん(高野山奥之院にはシロアリの供養塔までありましたっけ…:記事はこちら)、生け花に使った花とか、裁縫の針とかまで、そこに「霊」を感じて供養してしまうなんて、さすがは「八百万の神」の国、日本だと思います
ちなみに右に載せた写真(クリックすると、なぜか横倒しの拡大写真が表示されます)は、松島・瑞巌寺で見かけた「鰻塚」。
鰻好きの私としても「なまんだぶ…」
こうしたヒト以外の慰霊塔については、エクスキューズだという見方があるかもしれませんし、実際そうかもしれませんが、それでも、お金をかけて慰霊塔をつくる心持ちこそ、物質主義が跋扈する世の中では大事なことではなかろうかと思うわけでして…
つづき:2016/01/30 半年前の信州旅行記(その18)善光寺編 最終回




