つれづれなるまゝに 日くらしPCにむかひて 心に移りゆくよしなし事を
そこはかとなく紫煙に託せば あやしうこそものぐるほしけれ

今年二度目の関西旅行記(その16)高野山編⑨

「今年二度目の関西旅行記(その15)高野山編⑧」のつづきは、高野山奥之院供養塔のお話です。

まずは、奥之院マップを載せましょう。

奥之院の参道を大胆に例えれば、イタリックのAのような形をしています。

頂点弘法大師御廟、左辺の底が一の橋、右辺の底がバス停の「奥の院前」または「中の橋駐車場」にあたります。

んでもって、歴史上の人物大名家の供養塔は左辺に、現代の企業・団体の供養塔は右辺に集中していました。

私は、一の橋から右辺を北上して弘法大師御廟にお参りし、左辺を南下して「中の橋案内所」に抜けましたので、その順番に従って、いくつかの供養塔を紹介いたしましょう。

まずは、私の故郷のお殿様・佐竹家の供養塔。

供養塔の前に立つ鳥居をアップにしますと、、、

「鑑照院」「浄光院」「徳雲院」と彫られているのが判ります。
調べますと、「浄光院」が初代秋田(久保田)藩主の佐竹義宣公、「鑑照院」が二代目の義隆公、そして、「徳雲院」が三代目の義処公のことのようです。
でも、このお三方だけが供養されているのではなく、一門の方々が供養されているようでした。

例えば、こちらの写真に写っている3つの供養塔のうち、右側のをしげしげと観察すると、

三代目義処公の時代に29歳で亡くなった義苗公(義処公の長男)のものでした。

ところで、この仏教の聖地・高野山に、どうして鳥居があるのでしょうか?

鳥居があるのは佐竹家の供養塔前だけではなくて、伊達政宗公の供養塔前にも、

毛利家の供養塔前にも、

島津家の供養塔前にも、

しっかりと鳥居が立っていました

私が「明治維新最大の汚点」と信じて疑わない「神仏分離令」が出されるまでは、日本人の感覚では仏と神とは渾然一体となっていたのでしょうねぇ…

「その16」で最後に紹介するのは、こちらの供養塔です。

「大阪 飛田 勢(?)浄講納骨之碑」と彫られています。

もしかして、これは、大阪の飛田(新地)遊郭女性たちの供養塔ですか?

ちょっと調べたのですが、その確証は得られませんでした。
こちらのサイトによれば、

吉原には浄閑寺、名古屋の中村遊郭なら中村観音があるけれど、
飛田にはそれらしいものが見当たらない。そこで井上さんは飛田の組合の
人に話をきいたそうだ。組合幹部は、高野山にあるお寺が菩提寺だと説明し、
井上さんはそのお寺に確認の取材を申し込む。
しかし、当のお寺の対応はけんもほろろ。
境内の整備をする際に、施主の分からない石碑は奥の院にうつした、という
ばかりで、まったく取り合ってくれない。
井上さんは、それでも雪降る高野山の奥の院を歩き、
何万とうい墓石がある参道に、偶然「飛田」と銘の入った墓石を見つける。

とありますが、その「『飛田』と銘の入った墓石」がこの供養塔なのでしょうか?
転記した文章のイメージとはかけ離れた、立派な、そして小ぎれいな供養塔なんですけど…

考え込みながら、企業・団体の供養塔の話は「その17」で・・・。

つづき:2015/12/17 今年二度目の関西旅行記(その17)高野山編⑩