つれづれなるまゝに 日くらしPCにむかひて 心に移りゆくよしなし事を
そこはかとなく紫煙に託せば あやしうこそものぐるほしけれ

近所で国際芸術祭 (その3)

「近所で国際芸術祭 (その2)」のつづきは、「近所で国際芸術祭」というタイトルにはそぐわない岩槻駅周辺」会場の見聞録です。

去る11月4日、私は初めて岩槻駅に降り立ちました。

かつて私の友人が岩槻に住んでいて、彼の家に出かけたことや、東北道岩槻ICを使ったことは何度もあったものの(現在の場所に引っ越すまでは岩槻IC東北道では最寄りのICでした)、電車で行ったのは初めてでしたし、岩槻駅駅舎を見るのも初めてでしたし、止まっている 前の時計を見るのも初めてでした

駅前ショッピングビル区役所が入っているのが物珍しいかった(旧岩槻市役所はどこにあったんだろ)のですが、 それよりも何よりも驚き だったのは、人形屋さんの多いこと

そりゃ、岩槻「人形のまち」であることは知っていましたけれど、あれほどまでに人形屋さんメーカー販売店も)が集中 しているとは…。

岩槻「人形のまち」になった理由は、こちらのサイトの説明を転記すれば、

約370年前の寛永年間(1634年~1647年)三代将軍徳川家光公が、日光東照宮の造営にあたって全国から優れた工匠を集めました。当時岩槻は、日光御成街道の江戸から最初の宿場町であったため、東照宮の造営や修築に携わった工匠たちの中にこの土地に住み着いた者も多く、その人々が付近に数多く植えられている桐を使って箪笥などの製品を作るようになったと言われています。その中には人形づくりをする者もいて、その技術を広めたといわれます。
新版風土記によると、元禄10年(1697年)京都堀川の仏師恵信が岩槻で病に倒れ、時の岩槻藩主小笠原長重氏の藩医の治療を受けて回復後も岩槻にとどまり、付近で産出される桐粉に着目し、しょうふ糊で練り固めて人形の頭を作り始めたと言われています。岩槻周辺は桐の産地だったので原料の桐粉が豊富で、しかも人形頭の塗装に使用する胡粉の溶解、発色をよくするために重要なに恵まれていました。こうして恵信の残した桐塑頭の技法は、藩の武士や農家の人々の内職・趣味・兼業等によってその後も受継がれ、幕末には岩槻藩の専売品に指定されるほど重要な産業となり今日に受け継がれております。

とのこと。
ただ、東照宮の造営のために全国から集められた「優れた工匠」たちが、東照宮の竣工後に、なぜ地元に帰らず、また、日光に残らず、また、江戸にも行かず、 正直言って中途半端岩槻に住みついたのか、かなり不自然な気がします。

また、Wikipediaによれば、

岩槻人形は伝統産業のひとつとして知られているが、その起源については諸説あり定かではない

だそうで、さらに、

日光東照宮帰りの工匠や京都の人形師によりもたらされた説については、いずれも伝承であり、『岩槻市史』では十分な資料はないとしている。

と、にべもない…
それでも、岩槻「人形のまち」である現実はいかんともしがたく(?)、岩槻駅周辺を歩けば、人形屋さん多さはハンパじゃありません

そして、岩槻の人形屋さんとしては随一の知名度を誇る「東玉」旧社員寮が、「さいたまトリエンナーレ2016」の会場の一つになっていました。
この建物、見かけは冴えないのですが、

東玉旧社員寮

展示もさることながら、

室内の佇まいがなんとも懐かしい気にさせられて、印象深いものがありました。

ということで、中味が薄いのですが、今夜はこれまで。
「岩槻編」「その4」につづきます。