明日から旅行に出かけることにしておりまして、ちょっとあせりながら「犬山で江戸時代にタイムスリップ(その5)」のつづきです。
当日の記事「愛知(名古屋・犬山)旅行最終日が始まりました」で書きましたように、朝食前の散歩のときには閉じられていた犬山城の門は、2度目の「登城」の際には、しっかりと開放されていました。
そりゃそうだ、もうランチをとっても不思議ではない時刻になっていましたから…
で、入城
私にとって初めての「国宝4城」、犬山城天守です。
ネットでは、「古い城にしてはキレイすぎる」なんて声もあるようですが、こまめに修復してきたおかげなんでしょう。
写真をご覧のとおり、私が訪れたときも応急修理中で、足場が組まれたり、養生幕で覆われた箇所があったりと、ちぃと見栄えは良くありませんでした(応急修理は3月半ばで完了の由)。
でも、修理が必要な箇所を写真パネルで拝見すると、こりゃ仕方ない…と納得
犬山城のリーフレットによれば、
天守の創建年代は天正(1573~92)頃、慶長5(1600)-6年などいくつかの説がありますが、現存する天守の中では最も古いといわれています。
だとか。
そして、
明治維新に犬山城は廃城となり、天守を除いて櫓や門の大部分は取り壊され公園となりました。
その後、多くのお城・天守が見舞われて落雷・失火・戦災といった災難は免れたようですが、濃尾震災(1891年)や伊勢湾台風(1959年)で大きな被害を受け、その都度解体工事を含む修復工事が行われて現在に至っているそうです。
昨日の記事にも書きましたが、
文化財を後世に伝えるということは、基本的に「意志」と「財力」が伴わなければ無理なんだろうな
です。
それはともかく、天守に登りましょう。
まず1階、いくつかの広い部屋が設けられていまして、「上段の間」は、「床の間」「違い棚」「天袋」「帳台構え」と、「書院造り」の様式に造られていました。
キンキラキンの二条城の二の丸御殿(大広間一の間)や名古屋城本丸御殿(記事はこちら)とは対照的に、質実剛健で、これもまたよござんす
武具庫だったという二階には、「日本100名城」の変色してしまった写真パネルと共に、1/10の「骨格標本」が展示されていました。
こうして骨組みだけにすると、結構シンプルなものなんですねぇ。
肉付けした模型と見比べるのも楽しいなぁ。
「3重4階」の犬山城天守、3階は大屋根に埋もれていまして、リーフレットによれば、
入母屋屋根の中に位置します。創建当初は2階の屋根裏でしたが、増築に伴って3階となりました。南北には唐破風が設けられています。
ということで、唐破風がなかった頃は、かなり暗い部屋だったことでしょう。
現在は、掃除機置き場にも使われているようです
なんだか、メリメリっと行きそうですが、大丈夫なのでしょうか?
天守の最上層の望楼を外から見上げるとこんな風になっています。
一方、その内部はこんな具合。
何か気づきませんか?
外見上は火灯窓があるのに、中は壁があるだけ…
でも、この「飾り」があるとないとでは、随分と見栄えが違うと思います。
もし、望楼にこの飾りがなければ、「天守の顔」にぼかしがかけられてしまったような気がします。
もしかすると、3階の唐破風が造られたタイミングで、この飾りが付け加えられたんじゃなかろうかと、何の根拠もなく想像しています。
ところで、この日の望楼、南北の出入口を北風が通り過ぎて、寒かった…

暖房の上限の目安「18℃」を遙かに下回る「6℃」
その代わり、冬型の気圧配置のおかげで、眺めは最高に近い状況でした
南側には、❶小牧城(らしい)や、❷JR名古屋駅周辺の高層ビル、❸テレビ塔、❹尾張富士が見えましたし、
北側には、リーフレットと照合すると、岐阜城が見えたようです
と、「その5」で、
それにしても、この成瀬氏という一族は何者?
国宝に指定されるほどのお城の持ち主だったにしては、成瀬某という大名がいたという話は聞いたことはないし…
う~む、、、、どういうこと?
と書いた「成瀬氏」に触れずじまいでしたが、それは「犬山で江戸時代にタイムスリップ」シリーズの完結編(のはず)「その7」で書きます。
つづき:2014/05/05 犬山で江戸時代にタイムスリップ(その7:完結編)












