つれづれなるまゝに 日くらしPCにむかひて 心に移りゆくよしなし事を
そこはかとなく紫煙に託せば あやしうこそものぐるほしけれ

細川さんちのお宝を拝見(その2)

細川さんちのお宝を拝見(その1)」のつづきです。

細川家の至宝-珠玉の永青文庫コレクション-」 の入口はこんな感じ。

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ご覧のとおり、かなりユルユルです(入口は)。

で、展覧会は大きく分けて、長い歴史を誇る武家・細川家(肥後藩主家)伝来のお宝を陳列した「第一部 武家の伝統 -細川家の歴史と美術-」と、16代当主・護立氏が買い集めた古今東西の名品を陳列した「第二部 美へのまなざし -護立コレクションを中心に-」の二部構成。
登場する作品は、紀元前5~3世紀の壺や杯があるかと思えば1940年に描かれた梅原龍三郎画伯の「紫禁城」があるし、インドの仏像があるかと思えばマティスのそれは軽やかな「縞ジャケット」(細川護立氏から石橋正二郎氏の手に渡り、現在はブリヂストン美術館の所蔵・・・元首相の祖父と現首相の祖父との間の譲渡だ)があるし、で、まさしく古今東西の美術品がサミットを開催している風でした。でも、まったくバラバラの感じがなかったというのは、大コレクター:細川護立の目が効いているということなのでしょう。作品の良し悪しと好き嫌いとは別ですし…。

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それでは、順路にしたがって、私の目に止まった作品をいくつか紹介しておきます(私のメモ代わり)。

今日は「第一部 武家の伝統 -細川家の歴史と美術-」。

第1章 戦国武将から大名へ -京、畿内における細川家-」は見どころ満載でした。

鎌倉時代の作だという「時雨螺鈿鞍」は、繊細な仕上げの見事さもさることながら、文様と意匠から新古今集に収められている「わが恋は松を時雨にそめかねて 眞葛が原に風騒ぐなり」という歌が読み取れるのだそうな。お公家さんたちだけでなく、武士も教養がなければ偉そうにしていられなかったということなのでしょう。

100516_1_3 甲冑では、この展覧会のポスターにも使われている2代目忠興(三斎)公所用(実際に関ヶ原の戦いで着用したらしい)の「黒色威二枚胴具足」がとにかくカッコイイ
兜の頂点からビシッと立ち上がった飾り(ヤマドリの尾羽)がおしゃれだし、真っ黒の具足が雄々しいです。

また、3代目忠利公所用の「紫糸威懸威鉢巻型兜」は、鉢巻きを締めているかのような意匠といい、銀泥で仕上げた色合い(銀ムクに見える)といい、渋いのなんのって…。

ところが、江戸時代の武具全般に言えると思うのですが、天下太平の世が続くうちに、実用性よりも装飾性が重視されるようになったようです。例えば12代目韶邦公所用の「紺赤糸威二枚胴具足」のこの兜なんてのはどうなんでしょうか?

紺赤糸威二枚胴具足私には「何かの間違い」としか思えません。細川韶邦という殿様は幕末も末、最後の熊本藩主ですから、実戦もあったはずです。
韶邦公は、こんな「おバカ」っぽいいでたちで出陣したのでしょうか?

ところで、三斎公の「黒色威二枚胴具足」を360°からしげしげと見ていて、思いがけないものを見つけました。

普通、具足の背中には旗指物の竿を背負うための金具がついています(こちらのサイトをご参照方)。それはそれで良いのですが、この「お殿様用」の具足にもその金具(合当理:がったり & 筒受:つつうけ)がついているのですよ。
でも、旗指物を背負って戦場を駆け巡るのは足軽や騎馬武士のイメージで、幕僚が旗指物を背負って作戦会議に臨むシーンは想像しづらい…。ましてや、大将が旗指物を背負うなんて、まったくイメージできません。

そう、幕僚や大将は、具足の上から陣羽織を着ているイメージなのですよ。

陣羽織と言えば、仙台市博物館で観た伊達政宗の「水玉模様陣羽織」とか、東博の平常展で時々展示される小早川秀秋の「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織」とか、時空を超えた逸品が存在するものですが、細川家の陣羽織もステキでした。

100516_1_5 3代目忠利公所用の「羅紗陣羽織 淡茶紅裾替わり」は袖無しのマント風のデザインで、シンプルながら斬新でしたし、10代目斉樹公所用の「鳥毛陣羽織 九曜紋付」はその名のとおり全面がびっしりと鳥の小さな羽根で埋め尽くされていて、キレイなことといったら…。叶わぬこととは知りながら、陽の光の下で見たらどんな輝きなのでしょうか?

「お召しもの」だけでなく、火縄銃にも「目ウロコ」でした。
九曜紋散象嵌火縄銃 銘 肥州住八助重勝作」は、銃身には九曜紋が様々なバリエーションで象嵌され、銃床の木がまた美しい
もらって帰れるものなら、ホント、もらって帰りたかった…(火縄銃も銃刀法の対象になるのでしょうか?)

この「第1章 戦国武将から大名へ -京、畿内における細川家-」を見ていて考え込んでしまったのは、これだけの「お宝」を今に伝えるため、細川家や周辺の人たちがどれだけのヒト・モノ・カネをつぎ込んできたのだろうかということ。
今朝のNHK日曜美術館大名家とアート-細川家の4人の殿様-」の中で、18代目護煕元首相が、

私のところは700年近くの間、幸いにも戦災に遭わなかったんです。江戸の享保の大火(1717年 or 1721年)で少し焼けたことはありましたが、長く続いている家では珍しく戦火に遭っていないもので、ラッキーが続いています。
熊本空襲でも、屋敷は直撃弾を受けて焼けましたが、隣りに5つくらいあった蔵は丸々残ったんです。先祖の人たちが皆、残していこうという意思と運が重なって続いてきたのだと思います

とおっしゃっていました。確かに、「幸運だけ」だなんてぜえぇっったいにあり得ません 「後世に伝えよう、それが無理なら、せめて次代に伝えよう 」という強い意思と、加えて、そのための財力も必要だったことでしょう。そうでなければ、あれほど大量の作品が、あれほど良い状態で保存されることは不可能です。

といった具合に、例によって記事が長くなってしまいました。

まだ第一部の、それも第一章ですが、今日はこの辺で…

つづき:2010/05/17 細川さんちのお宝を拝見(その3)