つれづれなるまゝに 日くらしPCにむかひて 心に移りゆくよしなし事を
そこはかとなく紫煙に託せば あやしうこそものぐるほしけれ

思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-6

「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-5」のつづきです。

比叡山延暦寺根本中堂(の素屋根)から外に出ると、正面に、かなり急な登りの石段がそびえ立っていました。

そして、その石段の先には、なにやらお堂が見えます。

石段下には立て札が立っていまして、

  文 殊 楼
 延暦寺の正門です

とな

さっそくヒイコラと登ると、「延暦寺の正門」たる楼門:文殊楼が立っていました。

説明板を転記しますと、

重要文化財 建造物
延暦寺文殊 一棟 (大津市坂本本町)
文殊楼は、延暦寺根本中堂の正面の屋根上(ママ)にあって、ほぼ東を向いて建っています。桁行3間、梁間2間、二重、入母屋造、銅板葺の構造を持ち、一見楼門のように見えます。楼上には文殊菩薩が安置されています。
創立は根本中堂と同じく古いものです。寛永の復興にあたって根本中堂、講堂とともに再建されましたが、寛文8年(1668)に焼失してしまいました。そのためすぐに再建された文殊楼が現在のものです。寛永の建物より小規模となり、全体的には唐様が取り入れられていますが、古い様式も忘れずに入っている所に苦心がしのばれる折衷様式となっています。いずれにしても江戸時代の代表的な様式の建造物です。

「一見楼門のように見えます」というからには、「楼門ではない」ということですな

「楼門」とは何ぞや?コトバンクを見ると、「世界大百科事典内の楼門の言及」として、

重層の門は、近世では楼門あるいは三(山)門と呼ばれていたが、最近では重層門のうち、下層に屋根をもたないものを<楼門>と呼び、上下層に屋根のある門を<二重門>と呼び分けられるようになった。二重門は門のうちで最も規模の大きなもので、平城京の正門や、大寺院の南大門・中門などに用いられた。

とあります。
でも、説明板が言わんとしていることは文殊楼は一見楼門に見えますが、二重門です」とは思えないわけで、文殊楼は一見楼門に見えますが、文殊菩薩をおまつりするお堂です」ということなのでしょう。
でも、でも、比叡山延暦寺の公式HPには、

文殊楼は高い石段を隔て根本中堂の東側にあります。延暦寺の山門にあたり、徒歩で本坂を登ってくると、まずこの門を潜ることになります。
慈覚大師円仁中国五台山文殊菩薩堂に倣って創建したものですが、寛文8年(1668)に焼け、その後建てられたのが現建築です。

とあって、う~む… となってしまいます。

   

さて、時刻は12:30をまわり、お腹が空いてきました。
でも、この辺りに食事を摂る場所があるのか?

と思ったら、大講堂根本中堂の間にある無料休憩所一隅会館の地下に蕎麦屋さんがありました。

比叡山延暦寺で食事を摂るなら蕎麦 と思っていましたので、これ幸いと、お蕎麦屋さん・鶴喜そば天ぷら蕎麦をいただきました。

私が入店したとき、お客さんは私の他に一人だけと、かなり寂しげだったのですが、そのうちに、お昼休みらしいお坊さん数人や事務員さんっぽい人たちがやって来て、ちょっとホッとしました。

ところで、なぜ私が比叡山で食事を摂るなら蕎麦と思っていたのか? 

それは、今年1月のMisia Soul Jazz Big Band Orchestra Sweet & Tender大阪公演への 遠征の際(記事はこちら)、京都法住寺前で見た説明板が発端です。

関連する部分を抜き書きしますと、

明治維新後、後白河天皇陵が宮内庁所管となったので、御陵と寺域を別にして大興徳院と改め、渋谷(しぶたに)より親鸞上人自作の阿弥陀如来像と自刻彫像(そば喰い木像)を移したが昭和30年に法住寺の旧号に復した。

この親鸞聖人蕎麦のエピソードは、比叡山延暦寺東塔の入口から大講堂に向かう参道脇に並ぶパネルにもありました。

親鸞上人の説明パネル

親鸞聖人(1173~1262) 浄土真宗御開山 [そば喰い木像]
丁度29歳の時、救世の為にはどうしたら? と有名な京都六角堂へ百日百夜の願をかけられた。毎夜ひそかに京の町へと出かける親鸞の後姿を見かけた同宿の僧達は、色々と悪口を云い、つげ口まで言う様になった。師匠は聖人の在宿を確かめる為、夜中俄かに蕎麦の御馳走を出した。その時ご自作のお姿が聖人の身代りとなって蕎麦の御給仕をし共々おいしいと戴かれたという。以来、だれいうことなく [身代わり木像] 或いは [そば喰い木像]とあがめる様になり、今なお無動寺谷大乗院に安置されている。

さて、親鸞聖人自刻の「そば喰い木像」2体になりました
どういうこと?

法住寺のHPには、

この御像も天保五年山を下って東山渋谷に移され、更に明治の初めに当山に安置されることとなったもので、大仏天祐(当時の住職で妙法院門跡となられた高僧)が、妙法院宮(敦宮)の思召しにより移座したものです。

とあって、法住寺の木像は、幕末近くに、比叡山から京へやって来たそうな。
まぁ、パーマンのコピーロボットのように木像を操られた親鸞聖人ですから、木像の分身を造ることなんて容易だったんでしょう と、心広く解釈いたしましょう

   

はるばる比叡山延暦寺までやって来て、大講堂根本中堂文殊しか拝観していませんが、降りしきるの中、を差して坂を上り下りするのがおっくうになってきました。
また、彦根城を見物するとなれば、そろそろ下山した方が良さそうです。

ということで、東塔エリアの他の堂宇や、西塔エリア横川エリアの参観は次回、それも好天のときお楽しみにとっておくことにして、駐車場に戻りました。

と、国宝殿(こちらもパス)の横に立つに目が止まりました。

その手前には、「平和の塔 元亀兵乱殉難者鎮魂塚」と刻まれた石標が立っていて、詳細な説明板もあります。

曰く、

比叡山延暦寺は、元亀の兵乱すなわち織田信長の叡山焼討ちといういまわしい歴史をもっている。今から420年前、元亀2年9月12日、信長軍は、坂本(比叡山東麓)の街を手始めに日吉山王21社すべてを焼き払った。次いで比叡山を目指し根本中堂以下三塔十六谷の堂塔、僧坊500を3日3晩かけてすべて焼き尽くした。また坂本の街から炎に追われて山上に逃げ込んだ者千余名、山上の僧俗あわせて千余名は、ことごとく焼殺、斬殺されたといわれる。
天下布武を唱えて天下統一を目指す信長に旧勢力に属する延暦寺が、守護大名である越前の朝倉家や近江の浅井家などと連携して対抗したのがその基因であるが、あまりにも悲惨な出来事であった。
比叡山は、その後秀吉、家康の庇護を受け復興されるがその傷跡はあまりに大きく、その後の比叡山に大きな陰をおとしている。
420年を経た今、犠牲となった人々、仏法のため殉教した僧俗二千余名のためここに塚を築き、遺品を埋め、塔を建立して追善の回向法要を修し霊魂を鎮め先人達の霊を慰めんとするものである。
なおまた攻め込んだ信長軍の戦没者の霊に対しても十年後に同じく本能寺で火に焼かれた信長その人の霊にも恩讐を超え、恕親平等の心をもって追善法要を施すものである。(以下略)

だそうです。

仇敵ともいうべき信長をも供養するんですか…

比叡山延暦寺には、「信長は後世の僧達にとって間違いなく一大善智識の一人であったと思うべき」と唱える高僧がいらしたのだそうな。
こちらの記事(←良い記事)によれば、

若(も)し、信長の鉄槌がなかったにしても必ず仏の戒めを受けていたはずである。焼き討ちは、叡山僧の心を入れ替えた。物に酔い、権勢におもねていた僧は去り、再び開祖のお心をこの比叡山にとり戻そうとした僧が獅子奮迅に働いた。山の規則を改め、修学に精進したのである

と説く小林隆彰師は、1991年に延暦寺執行に就任し、その翌年

「怨みの心は濯ぎ、信長とは和睦したい」と慰霊の法要を発願し、犠牲者と信長を合同で供養する前述の鎮魂塚が建立された。420年の恩讐を越えた「和解」が行なわれた瞬間だった。

だそうな。

ところで、「#1-2」で、関ヶ原の戦いの前哨戦、岐阜城の戦い(1600年:慶長5年)で、西軍・織田秀信(信長の孫)が東軍に降伏して岐阜城が落城した話を書きましたが、その後の秀信は、Wikipediaによると、

改易された秀信高野山で修行を積むことになったが、祖父・信長の行った高野山攻めが仇となって当初は入山が許されず、10月28日まで待たされた。出家が許された後も迫害を受けた。この間、慶長8年(1603年)に伯母・三の丸殿が亡くなった際にはその供養を行っている。
慶長10年(1605年)5月8日、高野山から出て、山麓に住む。追放ともされる下山の理由には僧を斬るなど自身の乱行が原因であるとの説があるが、秀信自身は仏教を迫害したことはなく、高野山追放は祖父のとばっちりであるとする説もある。同年5月27日、向副で生涯を閉じた。この事からも、健康を害していたための下山療養とも考えられるが、死因は自害であるとも伝わる。高野山側では山を下りた5月8日を死亡日としている。享年26

真相は不明ながら、秀信は、岐阜城落城の際に自害していた方が、苦しみは少なかったのではなかろうかと思います

それにしても、祖父の所業を理由に忌まれたとしたら、なんとも不憫なことです。
「#1-5」で書いたように、

崇高な目標の為に信長が採った手段は、かなり苛烈なんですけど…。

なんだよなぁ。

つづき:2020/04/11 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #2-7