「久しぶりの川越 中編」のつづきです。
川越市立美術館で「小村雪岱 『雪岱調』のできるまで」を観終わったあと、私は駐車場に戻り、傘を取り出すと、雨の川越の街に向かいました。
ホント、家に帰ろうかとも思いましたが、まだ14:00をちょいとまわったくらいの時刻でしたし、雨も強く降っているわけではありませんでしたし、なにより私が貧乏性なもので…
でも、やはり傘を差しながらの観光は不便だし、かなり不満足でした
さて、この日の川越散策ルートはこんな具合でした。
「前編」で書いた郭町交差点からちょいと東(市役所方面)に行ったところに、こんな案内板がありました。
「川越城と中ノ門堀」と題するもので、引用します。
川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子によって築城されました。(中略)
江戸時代になると、川越城は江戸城の北の守りとして重視され、親藩・譜代の大名が藩主に任じられました。寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭としての体裁を整えるにいたりました。中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。
現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多賀谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、屋根が入母屋、本瓦葺き1階部分は梁行15尺2寸(4.605m)、桁行30尺3寸1分(9.183m)ほどの規模でした。棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間を備えた土塀が巡っていました。
上に載せた写真は、そのまた上に載せた写真にあおりを加えて調整したもので、右側の柱が傾いて見えています。申しわけない…
で、図が掲示されているくらいですから、中ノ門は現存していません。
が、中ノ門堀の一部は残っていました。
川越城(跡)は、まったくもっての平城で、防御は大丈夫だったのか、余計なことながら心配になってしまう私ですが、説明板にあった古地図と現在の地図を並べてみますと・・・、
現在はまっすぐになっている道はクキクキと折れ曲がっていますし、あちこちに堀がありますな。
本丸御殿の西側にある川越高校なんて、敷地内に堀跡があったりします。
川越高校といえば、男子シンクロナイズドスイミングで有名ですが(映画「ウォーターボーイズ」のモデルです)、その発祥は、生徒たちが校内に残っていた堀で泳いだこと、、、、なんて事実は確認できておりません
それはさておき、中ノ門堀はどんな構造で、どんな役割を担っていたのか、その詳しい説明が掲示されていました。
中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。西大手門から本丸(博物館方面)を目指して侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。また、発掘調査では城の内側と外側で堀の法面(のりめん)勾配が異なることがわかりました。中ノ門堀の当初の規模は深さは約7m、幅18m、東側の法面勾配は60° 西側は30°でした。つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。
なるほどぉ~ です。
納得した私は、川越のシンボル・時の鐘の前を通って、蔵造りの町並みを抜け…と歩いたのですが、驚いたのは、観光客の数
川越の街がこんなに賑わっているとは思いもよりませんでした
そして、あちこちから漂ってくる良い匂い。
昼食を摂ってから1時間しか経っていないというのに、漂う匂いに食欲が頭をもたげるとは
こんなところも、観光客を惹き付ける由縁なのかもしれませんな。
和服姿でそぞろ歩く人も結構見かけたのですが、ただ、和服を着た人たちの多くが外国語を話していたというのは…
でも、御同慶の至りです。
こうしてぐるりと川越の街を歩いて駐車場に戻りました。
雨が降っていなければもっとブログのネタを集められたのにな…とちょと残念
でも、まぁ、川越なら気が向けばひょいっと行けるわけで… (完)





