「2017年3度目の関西旅行記 #3-7」のつづきです。

「久しぶり」と書きましたが、前回、大仏殿を拝観したのはいつだったのかと思って調べてみると、あれまぁ~、2012年1月末(記事はこちら)以来ですから、ほとんど6年ぶり
毎年1~2回は奈良に出かけている私ですが、大仏殿とはとんとご無沙汰だったんですな。
で、やはり何から何までデカいそ、大仏殿
天平期の初代大仏殿に比べてプロポーションが良くないだの、唐破風が好みじゃないだの、ケチをつけている割には、やはり立派な建物です、大仏殿は…。

そして、大仏殿の前に立っている八角灯籠は、大仏殿のサイズからして応分な大きさなのですが、間近で観ると、デカい

そして、もちろん、大仏様もデカい
そして、そして、四天王もデカい
ただ、大仏殿の四天王は広目天(上の写真)と多聞天しかいないし(持国天と増長天は頭部しかない…)、存在する四天王も、なんだか頭でっかちでバランスが良くないゾ
ところが、広目天の足元から仰ぎ見ると、、、
おぉ、この迫力
大仏殿の広目天は、この角度から拝観するのが一番ですな
せっかくなので、広目天の反対側、大仏さまの左後方(北東)の多聞天も、ちょっと浅い角度だけど、写真を載っけておきましょう。

ところで、普通、お寺では仏さまは撮影禁止になっているものですが、この東大寺大仏殿は例外的に、三脚を使わなければ撮影可
どうしてなんでしょ
観光客にとってはありがたいのですけど…
話を大仏殿の四天王に戻しますと、御本尊の左前(南西)にいらっしゃるはずの持国天と、右前(南東)にいらっしゃるはずの増長天は、その頭部だけが大仏殿の北東隅に展示されていました。

説明板によりますと、
大仏殿の諸仏再興の最後に残った四天王像は、寛政11年(1799)広目天の御衣木(みそぎ)加持(かじ)が行われ、その後、多聞天像とともに完成したが、持国・増長の二天は素木(しらき)の頭部のみが残った。
だそうです。
どうしてこんな中途半端なことになったのでしょうかねぇ
現在の大仏殿は、Wikipediaから引用すれば、
戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した。天正元年(1573年)9月、東大寺を戦乱に巻き込むことと乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している。仮堂が建てられたが慶長15年(1610年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶(1648 - 1705年)の尽力や、江戸幕府将軍徳川綱吉や母の桂昌院を初め多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年(1709年)に完成した。
と、18世紀初めに竣工したものですが、大仏殿竣工後も、四天王ほかの再興が約100年間にわたって続いていたということなのでしょう。
もしかして、四天王再興の中止は、寛政の改革の緊縮財政が影響したのかも…と想像したのですが、寛政の改革は1793年に松平定信の失脚をもって終わっていますので、この推察はハズレのようです…
ところで、大仏さまの左後ろ、多聞天像の近くの柱に、有名が穴が開いていまして、穴くぐりの順番待ちの列ができていました。

くぐると無病息災のご利益があるというこの穴、どうして開いているのでしょうか?
公式な説明は見つかりませんでしたが、この穴があるのは、大仏さまの北東、つまり私の大好きな鬼門(艮=うしとら)にあたっておりまして、この穴から邪気を逃すのがその役割だという説があるようです。
そういえば、弥次さん喜多さんの東海道中足栗毛で、弥次さんが大仏殿で穴くぐりにチャレンジしたものの、体が抜けなくなって 一騒動を起こす話が出てきます。
この大仏殿は東大寺の大仏殿ではなく、京都・方広寺の大仏殿でのお話。
でも、方広寺大仏殿は、Wikipediaによると、
寛政10年(1798年)の7月には大仏殿に雷が落ち、本堂・楼門が焼け、木造の大仏も灰燼に帰した。
だそうで、京都見物を描いた東海道中膝栗毛の「七編」が刊行された文化5年(1808)には、既に方広寺大仏殿はなかったはず
う~む… です。